「親になって初めて親の気持ちが解る」という言葉があります。一見とても有り難さを感じさせてくれる表現ではありますが、これは単に「子供の気持ちを忘れる」ということなのではないのでしょうか。いままでの私は、まだ親ではなかったから、何事も子供の目線で、子供の気持ちを重視して考えることができました。だからこそ、逆に親(教育者)に対しての不信感が多かったようにも感じます。そしてそれを私は数々のエッセイにぶつけ、残してきました。

私が不信を抱く親を持つ子供達は、間違いなく病んでいました。どの程度の深い傷を負っているのかまではよく解らなかったのですが、子供を授からない私の冷静な目には、明らかにその子供の奇怪な行動を捉えていました。親(大人)の目を盗み、目の向かない所での、いじめや暴力、物取り隠し、暴言や嘘の発言。子供のことしか見えていないはずの親が、その子供の行動の変化とSOS信号に気付いていないことが多すぎました。そしてそれらの矛盾とも言える教育に、訳も解らず付いて行く、従順な子供達…。私にはその子供達が不憫でならなりませんでした。

 

私は今、病室のベッドの上で、このエッセイを書いています。産婦人科病棟の一室。私は、3月22日4時48分に、一人の女の子を出産しました。

タイトルで表記した、妊娠・出産体験エッセイというよりも、母親になった直後、子育ての苦労をまだ知らない、その苦労を体験する寸前…そんな貴重な時間に、この貴重な気持ちを忘れてしまう前に、それらを書き残したいと思います。

 

 結婚5年目、初めての出産でした。私は高校生の時に、大幅なダイエットを行い成功したその代償として「無排卵月経」と産婦人科医師から診断され、妊娠は難しいとされていました。両親に勧められて、産婦人科の不妊外来に数回通い、排卵誘発剤の投与や内診などを当時から繰り返していました。そして数年が経ち、結婚。結婚後も、数回の通院と不妊治療、流産の末、やっと今回、自然妊娠に成功し、無事に出産することができました。

子供を授からない不妊期間中、様々な気持ちが入り乱れました。その様々な気持ちの中で、一番大きかった、他人への不満・嫉妬…。子供の居る家庭を憎み、不安になり落ち込んでいくことが多々ありました。そして現在の社会、テレビニュースからほぼ毎日のように報道される児童虐待・折檻・育児放棄問題。これらが日々氾濫し、増していく疑問とストレスが私を振り回し混乱させ続けました。

そんな環境の中、幸運にも恵まれて妊娠・出産をしたのですが、実はまだ現時点では自分が「親」になった実感がなく、同時に保育器に入っている我が子が可愛くて仕方がないという感情も生まれていません。しかし、以前と確実に変わっている私がいます。10ヶ月間の妊娠期間中の我が子に対する気遣いなども考慮すると、まるで別人なのかもしれません。

昔を思い出し、ベッドで執筆していると、あの自由だった日々を懐かしく感じます。そしてもう既に、不妊治療期間の辛い出来事等は私の記憶から薄れ、忘れ去られていくような気がします。この先、私が子育てをしていくと、やはり今までの様々な感情も忘れていってしまうのでしょうか。

 

児童虐待・折檻・育児放棄問題…目を覆いたくなるような、これらの事件にも、10ヶ月前の私と、今のこの産婦人科のベッド上の私との感じ方の違い、考えや感想の変化があります。

 不妊治療最中、よく夫とこのようなニュースを見るたびに、深いため息を出し、疑問ばかりがお互いに芽生え、「何故、私たちの所に授からなかったのだろう。絶対にこんな仕打ちはさせなかったろうに」そんな考えを中心に、子供に惨いことをする親に対して怒りをぶつけ反発をしていました。当時の私達夫婦には、まったく理解ができなかったことです。そしてそんな親達を、私は一人の人間として認められませんでした。

 妊娠期間10ヶ月間に、子育ての苦労はないものの「一人の身体ではない」というプレッシャーを経験する事ができました。思い通りにならないその苦しみから、たまに逃げたくなることもありました。自由がきかずイライラし、人に当たってしまうこともありました。また、自分の将来を考えると、果たして子供が居ても大丈夫なのだろうかという不安もありました。

何気なくこれらを今思い返して、深く考えてみると、背筋がゾッとしてきます。まだ子供が産まれず子育てもしていない、たった数ヶ月の間に、多少なりとも子供の存在が「邪魔」という表現を使う事ができていたこと…。この先もしかしたら私も、ニュースになる様なことを子供に対して、しているのかもしれないのです。子供の事よりも自分を大切にし、悩んで苦しんだ結果、気が付かずに…。

これらの事件、全ての親が言う「こんなことになるとは思わなかった」「殺すつもりはなかった」という供述。理解などしてはいけない犯罪者の感情が、今の私には少しだけ理解出来てしまっています。このような犯罪を起こしてしまう人たちはきっと、私が今までエッセイの中で反論してきた「自分が見えていない親」ではなく「自分しか見えていない親」なのでしょう。

 

私は「親」になりましたが、まだ教育者ではありません。どちらかといえば、自分しか見えていない親に属するでしょう。

今の私が「自分しか見えていない親」に近いとするならば、いつになったら、子供が自分よりも大切な存在となり、子供に全てを賭けるようになって、今まで嫌というくらい見てきた「自分が見えていない親」になるのでしょうか。

そして、これから何に注目していったらいいのだろうと考えると、子供のことよりもまずは自分の事、自分の道を大切にするのが一番だと思うのですが、それが強すぎても「自分しか見えていない親」のままとなり、犯罪者にだって変貌してしまうかもしれません。

 

この先、私はどのような教育者になるのでしょうか。もう「親」という一つの線からは、脱出する事はできません。数日後、数ヶ月後、数年後…後に、自分を見失わないよう「今だから理解できる事」を忘れてしまう前に書き残す。それが今の私の一番すべき事だと感じます。







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